お茶の歴史をネットで学ぼうとすると・・・
先日から、お茶の文化や歴史に関して解説する講座を始めています。
初回はざっくりとお茶の歴史について概観する内容だったので、現在、お茶の歴史はどのように語られているのかをネットで検索してみました。
熱心な方によって、概ね正しく書かれているものもあります。
しかし、やや断片的だったりすることも多いですし、得意分野は詳しすぎるぐらい詳しいが、それ以外が残念なことになっているものもあります。
また、明らかに飛躍や誤解があるものなども数多くあります。
このようなことから、同じ内容を調べたとしても、論調が違うので、お茶の歴史をネットで勉強しようとすると、これは大変だな・・・と感じました。
その中で、非常に興味深かったのが、大手企業が運営するWebサイトなどで書かれている「CHA」と「TEA」の話です。
これが、どういうわけか盛大に誤解が広がっているようなのです。
よく書かれている「CHA」と「TEA」の話
この話は、いわゆる「蘊蓄」や「小話」の類いとして、ネットのあちこちで書かれているので、目にした方も多いものだと思います。
世界各国の「茶」を表す単語は、「CHA・チャ」と発音するものと「TEA・ティー/テ」と発音するものの、大きく2つに分かれている、というものです。
これについては、以下に示すとおり、事実です。
<CHAのグループ>
中国:チャ
日本:チャ
チベット:チャ
モンゴル:ツァイ
ロシア:チャイ
インド:チャ
トルコ:チャイ
ポルトガル:チャ
<TEAのグループ>
イギリス:ティー
オランダ:テ
フランス:テ
ドイツ:テ
イタリア:テ
スペイン:テ
CHAは主に陸路を通じて広まったとされ、TEAは主に海路を通じて広まった、というところまでは、ある程度、問題ない内容です。
しかし、これらの発祥がどこか、という話になるとと単に怪しくなります。
多くのサイトでは、
CHAは広東方言であり、広東省由来。
TEAは福建方言であり、福建省由来。
と書いてあり、ヨーロッパの例外であるポルトガルについては、広東語圏であるマカオを領有していたから、と説明されているものが多いかと思います。
これが、ご丁寧に地図に落とし込まれていて、福建省からヨーロッパ方面へ矢印が伸びていたり、広東省から日本を含む各地に矢印が伸びていたりします。
体裁としては綺麗にまとまっているようなのですが・・・
みなさんは、この説明で納得されるでしょうか?
日本への茶の伝来を考えてみよう
個人的には全く賛同しかねる部分があります。
それは、
「CHA」は広東由来。日本に来たのも広東省から
のような大いなる誤解と飛躍が広まってしまっていることです。
歴史を紐解いてみれば、日本へのお茶の伝来は、二度ほどあります。
一つは唐の時代で、遣唐使として出かけていった最澄などの僧侶たちが、茶を持ち帰った、というものです。
滋賀県大津市にある「日吉茶園」はその時代に作られた、日本最古の茶園だともいわれています。
当然、その植物の呼び名も持ち込まれたことでしょう。
しかし、この時代、最澄が出かけていった先は天台山。浙江省です。
浙江省の方言というよりも、中国の多くの地域では「チャ」の発音なので、それが持ち込まれたと考えるのが自然でしょう。
その後、国風文化の影響などで、一旦は廃れたお茶ですが、宋の時代に再び日本に伝来します。
栄西などの僧侶たちが、現地の寺院で行われていた茶の儀式(茶礼)を学び、それを日本でも再現しようと持ち帰ったわけです。
この時、彼らが出かけていったのは径山寺などです。
これは南宋の都であった臨安(現在の浙江省・杭州)にほど近い場所です。
これまた浙江省なのです。
というわけで、少なくとも日本については、広東省の方言が由来で「チャ」という発音になったわけでは無さそうです。
古い時代から陸路中心で広まった地域は「CHA」、大航海時代以降に海路中心で広まった地域は「TEA」
もっとも、これは日本だけの話ではありません。
たとえば、チベットへのお茶の伝播は、唐の皇女であった文成公主がチベットに嫁いだ際と言われています。
当時の唐の中心地の言葉が、「CHA」という発音だったというわけです。広東省は関係ありません。
モンゴルやロシアも陸続きですから、早い段階に伝わったと思われます。
また、アラブ諸国へも、中国からは西域にシルクロードが伸びており、陸上交易が行われていました。
このような交易の中で、当時の王朝の中心言語である「CHA」の発音が伝わったと考えるのが自然でしょう。
やはり広東省は出て来ません。
ポルトガルについては一旦、横に置くことにし、「TEA」について検討しましょう。
「TEA」が伝わった国々は、大航海時代以降に、アジアへ進出してきた国々、あるいはそれらの国から、茶を紹介された国々です。
ヨーロッパ方面で人気が高かったお茶は、福建省の武夷山などで製造されていた発酵茶でしたから、それらを買い付けるのであれば福建省へ直接行くのがもっとも効率的です。
そのため、福建方言がヨーロッパに入ってきたというのは、実に理に適っています。
その後、清朝の貿易システムは広東十三行などを中心とした、広東システムに切り替わります。
この時点で、広東方言が入って行くという流れがあるかもしれません。
ここでポルトガルの話に戻ります。
日本への鉄砲やキリスト教の伝来をもたらしたのは、ポルトガルでした。
要するにヨーロッパ諸国の中でも、早くからアジア地域に進出していた国だったわけです。
当然、滞在して見聞を広める中で、アジアには「チャ」なる不思議な飲み物があるぞ、という報告は上がっていたはずです。
年代的にマカオ領有よりも前に、中国か日本で茶には接触していたはずですから、寧波か日本かの「CHA」という音が伝わった、と考えた方が自然かもしれません。
というわけで、陸路中心で広まったCHA(日本だけは例外的に海路。ポルトガルも例外)と大航海時代以降に海路で広まったTEA、と整理した方がより正確かと思います。
なぜこのような誤解が生じるのか?
日本人なら、日本の歴史を知っているはずですが、なぜこのような誤解に基づく、蘊蓄・小話の類いが広まってしまい、大手企業のWebサイトに堂々と掲載されているのでしょうか?
どうも歴史認識などを見ると、ヨーロッパの人たちが考えた、ざっくりしたアジアの捉え方に立脚した言説のように感じます。
おそらくは紅茶界隈の方が、どこかでこうした言説を見かけて、それを紹介したところ、ヒットしてしまった(今風に言えば、「バズった」)のではないかと思います。
広まりやすい話というのは得てして、単純化されており、キャッチーなものですから、さまざまなところに転載されている内に、既成事実化しているということなのでしょう。
このように、歴史の話とは、きちんと順を追って考えれば、間違いに気づくものなのですが、蘊蓄や小話と受け取ってしまうと、そのまま間違いが放置されてしまいがちです。
残念ながら、蘊蓄や小話は話として面白く・分かりやすくするための事実の改変があることが多いので、いくら積み重ねても、体系的な知識にはならないのです。
茶の歴史を学ぶ際にありがちな落とし穴として、十分気をつけて学んでいただきたいと思います。
次回は6月16日の更新を予定しています。