第10回:「嗜好品」としてのお茶とは?

「お茶は、嗜好品だからね」という言葉を、お茶屋さんから聞くことがあります。

この”嗜好品”という言葉が、なかなかの曲者です。
この言葉を、ポジティブな印象で捉えるかネガティブな印象で捉えるかの違いによって、見える世界は大分変わると思っています。

嗜好品だからこそ種類が多く、選ぶ楽しみがある

お茶屋さんが言うところの「嗜好品」とは

これまでの経験上、お茶屋さんから「嗜好品」という言葉が出てくるのは、どちらかというと

「このお茶が好みでなくても仕方ない。だって嗜好品だから」

というようなネガティブな文脈の方が多いような気がします。

その意味するところを、もう少しかみ砕けば、

・人によって好みが違うものである
・同じお茶でも「美味しい」と感じる人とそうでない人がいる
・地域性などに左右される
・生命の維持に必要なものではないので、別に飲まなくても問題は生じない(消費者から選ばれないこともある)

といったところでしょうか。

一種の諦めに似たニュアンスが含まれているような気がします。

 

ポジティブな「嗜好品」の捉え方

しかし、「嗜好品」というのは、本来はもっとポジティブな印象で語られるべきものではないか、と思います。

「生活にどうしても必要なものではない」ということは、栄養の補給ではなく、純粋に香りや味わいを楽しむのだということです。
必要十分な栄養は得た上で、そこに付け足されるもの。
すなわち、生活のゆとりを意味するものであったり、気分転換などを担う、”ちょっとした贅沢”の飲み物だということです。

「人によって好みが違う」というのは、”自分にとって最高に美味しいと感じるものが、どこかにある”という可能性を示すものでもあります。
それを探すという試みは、宝探しにも似た楽しさを伴うものです。
ワインやコーヒーなどのいわゆる嗜好飲料というのは、このようなポジティブな印象を持たれています。
同じ嗜好飲料である「お茶」が、そうでない理由は、どこにも無いはずなのです。

「お茶は、ワインやコーヒーのように色々こだわって楽しめるもの。ハレの飲料である」と捉え直すと、見える風景は全く違ってきます。

”お茶の嗜好品としての可能性”とは、まさにこのポジティブな面のことです。

 

茶の世界は可能性に溢れている

本来、お茶とは可能性に溢れた飲み物なのだろうと思います。

摘んできた生葉の成分を、意図的に残したり、変化させたりする製茶のプロセス。
これによって、さまざまな味や香りのお茶を生み出すことができます。
作り手の個性が出るのはもちろんのこと、流通を担う、茶商による仕上げ・ブレンドなどでも新しい個性が生まれます。

さらに、世界には様々な個性を持った品種があります。
青い葉から生まれるとはとても思えないような香気を持った品種だったり、味わいを持つ品種があります。

製法×品種の組み合わせだけでも、可能性は無限大です。

さらに味の抽出方法(淹れ方)によっても、味わいや香りを自由自在に変化させることが可能です。
これは消費者が直接関われる部分であり、探求のしがいは大きい分野です。

どこを切り取っても、可能性だらけ。

それがお茶の本来の姿だと思います。

 

可能性の大きさは、難しさにも

もっとも、可能性が大きいことは、言葉を換えれば「混沌」になりかねません。

全くの予備知識無しに、底知れない可能性の海に飛び込む。

「怖い」と感じるのが普通です。
ひょっとしたら痛い目に遭うのではないか、と警戒するのは、人間の普遍的な心理です。
知らない世界に飛び込むのは何でも勇気が要ります。尻込みする人が多いのは、当然だと思います。

ここをクリアするには、お茶の世界を形作っている全体像を示したり、初めての人ならばどのように進んで行けば良いか、というようなハウツー的な知識・情報を得やすくし、予備知識を付けられるようにすること。
あるいは、ガイドを買って出るような存在(販売員、インストラクターなど)がいて、安心して飛び込めるような環境が必要だと思います。

とりわけ、リーフのお茶には「抽出」という、ひと手間が伴います。

すっかり、ペットボトル茶が主流となった現代。
子供の頃から自由自在にお茶を淹れられるという人は、かなり稀有な存在です。
このまま、手を拱いていれば、お茶を淹れられない人口は着々と増えていくことでしょう。

とはいえ、これを正すために「日本人なら淹れられて当然」というような道徳的観念でもって、指導をしていくのは逆効果になるでしょう。

「ハレの飲み物」が強制から生まれることはあり得ません。

あくまで「楽しそう」「面白そう」という、自分の内側から出てくる興味から、茶器を手に取るという雰囲気を醸成していく必要があるでしょう。

この点を考えると、心からお茶を楽しんでいる人たちを見る、接する、という機会をつくることも、有用ではないかと思います。

 

グランドデザインを持つことの重要性

このように、お茶を「嗜好品」として飲んでいこうとすると、個人や個店の頑張りだけではどうしようもない部分が出てきます。

たとえば、

・書店に行けば、茶の入門書がたくさん並んでいる
・ネットで検索すれば、的確な知識や情報が得られる
・お茶を飲んでみたくなるような最新のニュースが自然と入ってくる(作況、ユニークな茶、店舗の情報など)
・販売店に行けば、親身になって相談してもらえ、適切なアドバイスがもらえる
・お茶を分かりやすく伝える・魅力的に伝えることに長けたプロフェッショナルな先生がいる
・お茶を楽しんでいる人たちを身近で見ることができ、交流できる場がある
・産地に行けば、茶の生産現場の状況を知り、学ぶことができる

等々。

ワインのような「嗜好品」として茶が飲まれるためには、こうした総合的な環境。
言うなれば”インフラ”の整備が、どうしても必要になると思います。
嗜好飲料は、業界がきちんと手を打って作り上げていくものなのです。

茶業界に問われているのは、単発の施策ではなく、こうしたグランドデザインを持ち、必要な機能をきちんと整備していくことではないかと思います。

 

次回は特別編として、中国から今年の市場動向の報告となります。
4月20~23日頃の更新を予定しています(通信環境により数日遅れる可能性があります)。

 

 

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