第129回:評論家のノブレス・オブリージュ

炎上する評論家

とある食の分野の評論家を名乗る方が炎上しているそうです。

実際にどのようなことがあったかは当事者でなければ分からないことですが、ブログでの釈明が酷すぎたようです。

文筆業の方であれば、その人独特の文体というものが、ある意味、商売のタネです。
しかし、釈明をするには、あまりにも不適切な文体であったと思いますし、文章というのものは長く書けば書くほど、その人の心の奥底にある思考や感情、価値観も透けて見えるものです。
個性的すぎる文体で、長々と釈明どころか悪ノリをしたようなものをネット上に書き記したわけですから、これは炎上しても致し方ないと思います。

とはいえ、これは何かを評して論ずるという「評論」の難しさを物語っているようでもあります。

 

ネットのクチコミやレビューで誰でも”評論”できる時代

ネットの時代では、グルメサイトやショッピングサイトでレビューを促すメッセージが頻繁に届きます。
店側の説明だけではなく、消費者のクチコミがあることによって、その魅力がより伝わったり、より真実味が増すというわけです。
お店や売り手、サイト運営者も、ポイントの還元や商品のおまけを付けるなどして、積極的にクチコミを集めようとします。

そうした働きかけの結果、多くの一般的な消費者もレビューという形で、その店や商品についての感想をネット上に書き記すことが増えてきました。
こうしたレビューや感想は、一つの読み物のようにもなり、サイト運営者にとってはありがたいコンテンツとなります。
いわゆる、CGM(Consumer Generated Media・消費者がコンテンツを生成するメディア)というもので、レストラン情報サイトや価格情報サイトなどを思い浮かべると、いかに一般的なものになっているかが分かると思います。

多くのレビューは、短文で素朴な感想が多いものですが、長文を掲載する方や独特の文学作品めいたものに仕上げる方もあります(”食べログ文学”という言葉も)。
そうした中から、豊富なレビュー実績などを持つ方が、さながら”評論家”となっていくケースもあります。
特にレストラン関係では、自身で運営するブログ等を立ち上げ、食べ歩きの趣味が趣味から専門家・評論家に転身する方も少なくありません。

 

匿名の素人による評論の危険性

このように、インターネット上では一般消費者、ある意味、素人によるレビューや評論が多く見受けられるようになってきました。
お店やサイト運営者ではない、利用者の生の声が聞けるということで、非常に優れた参考になる投稿や全体的な傾向を見る上では大変役に立つことも多いです。

が、反面、さまざまなデメリットもあります。
特にレビューの多くは匿名での評価ですので、色々な危険性も孕んでいるものです。

1.無謀な要求基準

さまざまなお店は、経営体として行っていますから、コストの範囲内で、できるだけ高い水準の商品・サービスを提供しようとします。
しかし、これらの価格構造を理解していない消費者の中には、要求基準が厳しすぎるケースもあります。

たとえば、個人経営の日常食を提供する食堂で、チェーン店並みの行き届いたサービスを求めたりする。
平均滞在時間が1時間以上に及ぶような茶館で、このお茶の値段はチェーンのコーヒーショップと比べて高すぎるとクレームを付ける、などです。
全く割に合わない要求基準で自分の店・商品を評価されては、お店の方もたまったものではありません。

何軒ものお店に通っていたり、いくつも購入した経験があれば、おぼろげながらに相場感ができるものです。
が、素人であるがゆえに、それが無い状態で評価・レビューを行われる可能性があるということです。
多くのお店が、評価サイトなどを嫌ういちばんの原因かもしれません。

2.匿名ゆえの無責任な投稿

匿名であることから、面と向かっては絶対に言えないような暴言を書いてしまう投稿者もいます。
また、そうしたコメントを残すことが、お店にどのような影響を与えるのか、を考えずに、気持ちの赴くままに投稿してしまうケースもあります。
通常の社会では良識ある振る舞いをしている方でも、様々なしがらみや世間体を考えなくても良いと感じられるネットの世界では、全く別人のような傍若無人な振る舞いをするという人もいます。

商品やお店は人が作っているものであり、ネガティブな投稿によって、売れ行きに影響を与えたり、選択肢から省かれてしまうとなれば経営に影響が及ぶこともあります。
そのような想像力を持たない方も紛れ込んでしまう可能性があるので、匿名は率直な意見を書きやすい、集めやすいというメリットもありますが、デメリットもまた大きいのです。

 

素人による評論が多くなっているからこそ、一定の見識を有し、実際に名前を出すなどして責任の所在を明確にして評価を行う、レビュワー・評論家の存在感は、本来ならば高まって良いはずです。
しかし、なかなかそうはならない現実もあります。

 

そもそも、評論とは利益相反を抱えやすいもの

ある程度の知名度を得た評論家というのは、店舗からあるいは読者からの信頼を得ているケースが、ほとんどです。
しかし、評論というのは、「評して」「論ずる」わけで、特に「評する」の部分では利益相反を抱えやすいものです。

「お客様視点で言えば、この部分は明らかに良くないが、お店側から依頼されたものなので悪くは書けない」

というようなものもあります。
また、評論家自身にある程度の知名度があり、業界のオピニオンリーダーあるいはインフルエンサー的な立場にある方だと、この立場を利用して、お店側に過剰な要求を行うケースもあります。
「自分が記事にすれば、売れますよ」というような話です。その見返りとして、店側に都合の良い記事を書いてしまい、読者側の信頼を損ねてしまうこともあります。

評論家という仕事は、提供側か消費側、あるいは運営するメディアから対価を頂いて行うことが多いので、このような利益相反はどうしても起こりがちです。
メディア人としての職業倫理がしっかり確立している方や基盤が安定している方ならば、利益相反を上手に処理できるのですが、易きに流れてしまうケースもあるでしょう。
今回のケースなどは、まさにこの典型だと思います。

 

評論するならば持つべきノブレス・オブリージュ

「評論家」と対義語のようになっている言葉に「実務家」があります。
実際にお店を経営したりしている方(実務家)からすれば、言葉や写真などで自分の築き上げてきた店を評してしまう評論家は煙たい存在と感じる方が多いのは、全く不思議ではありません。
プロフェッショナルとしての意識が評論家からは感じられない、ということなのかもしれません。

しかし、現実にはプロフェッショナルな「評論家」は存在します。
そうした方によって、お店や商品のキラリと光る個性にスポットライトが当たり、広く知られるようになるという事例は枚挙に暇がありません。

このようなプロフェッショナルな「評論家」とそうでない評論家の大きな違いは、職業人としての心構えと使命感によるところが大きいと思います。
自分自身が蓄積してきた知識や見識を、業界をより良くするためなど、大義のために使おうとする方がプロフェッショナルなのだろうと思います。
ノブレス・オブリージュという言葉がまさに当てはまります。
そのような気概を持つことが、評論家という職業人には何より必要なことなのでしょう。

 

さて、個人的にも、お茶の評価やお店の紹介などを行うケースが多く、今回の炎上騒ぎは対岸の火事ではありません。
いま一度、稲盛和夫さんではありませんが、「動機善なりや、私心なかりしか」という言葉を反芻して、お店と消費者と業界全体の三方一両得になるような情報発信を心がけたいと思います。

 

次回は10月16日の更新を予定しています。

関連記事

  1. 第98回:コロナによる販売不振局面をどう乗り切るか

  2. 第106回:明るい茶業の未来を宣伝するメディアと変化に対応する茶業者

  3. 第81回:インバウンド消費への対応力

  4. 第21回:「地理的表示」が中国茶にもたらすもの

  5. 第29回:玉石混淆の中国のお茶ネットショップ事情

  6. 第84回:求められる新しい”コンセプト”

無料メルマガ登録(月1回配信)