中国の大都市には、茶業者が多く集まる「茶城」と呼ばれる茶葉市場が存在します。
台湾や香港などには存在しない、この独特の流通拠点は、中国ならでは事情により形成されたものです。
茶の流通網が一度は壊滅
中国は、かつてはアヘン戦争が起こってしまうほどの茶の輸出国であり、茶の生産大国でした。
しかし、日中戦争やその後の国共内戦など戦乱の時代を経たことで、茶の生産量は激減。
輸出はおろか、国内にも十分な茶を供給できないような状態に長らく陥っていました。
新中国成立後、政府は茶の生産量の回復に力を入れ始めます。
しかし、その意味合いは、国内での茶の需要に応えるというよりは、新中国成立時に諸外国から借り入れた借款の返済原資として「茶」が指定されていたためであり、いわば「借金を茶で返す」ために必要に迫られたがゆえのことです。
当然ながら、茶の生産の主力は輸出用の茶、とりわけ社会主義体制の盟主であったソ連向けの紅茶が主力となります。
まずは返済が優先ですし、そもそも返済に足るだけの茶葉の供給が回復していなかったので、国内で茶を消費することは憚られる時代が続き、庶民の間での喫茶の文化は長らく失われることになります。
国内での茶の流通量が絞られれば、茶を扱う業者に対しては大きな影響があります。
中国にも清の時代から続く、歴史あるお茶の名店といったものは、当然、存在していました。
しかし、茶の流通が無ければ、茶業者は存続できません。
さらには文化大革命など、茶を嗜むことが憚れるような時代もあったことから、茶業者の多くは市中から姿を消します。
中国においては、国内の茶の流通網が一時的に消失していたのです。
再び流通網が必要に
苦難の時代を経て、中国の茶の生産量は急回復を実現するとともに、輸出量よりも供給量が上回る時代を迎えます。
とりわけ、国際市場においては、プランテーション型の大規模農園を抱える他の紅茶生産国にはコスト面で中国産は不利な立場に置かれていたため、海外での消費拡大は難しくなります。
そこで、一時は喫茶の習慣・文化を失った国内市場を再度復活させる必要が出てきました。
そのためには、喫茶の効用を庶民に再度啓蒙するなど、ハード面、ソフト面で様々な整備を行わなければなりませんでした。
大きなテーマの1つだったのが、茶の国内流通網の再整備です。
消費者に喫茶の効用を説いたところで、それを入手するのが困難であれば、普及はしません。
しかし、既存の流通業者の多くが失われていたため、茶の生産地から都市へ茶の流通をどのようにスムーズに行うか、が大きな課題であったのです。
こうしたなかで都市部にお茶を流通させる役割を担ったのが、いわゆる「茶城」です。
茶城が生まれた背景
中国の農村では人民公社の時代から、生産責任制の時代へと移り変わっていました。
政府からの請負量以上の収穫物を自由市場(農貿市場)などを通じて、自由に販売することができるようになった時代です。
このような時代になったことから、たとえば上海の街頭では、1980年代頃から安渓出身の茶農家がやって来て道端で鉄観音を販売する姿などが見かけられるようになります。
もっとも、当時の上海では鉄観音などは見たことも無いお茶でしたから、なかなか飛ぶように売れたわけでは無かったようです。
しかし、彼らは地道な販売活動を続けて、鉄観音茶の魅力を普及。
こうして、上海に足場を築いた茶農家出身の販売業者たちは、1996年、上海駅の北側に大統路茶葉批発市場を開きます。
この場所を拠点に、上海市内の需要家に向けた卸売りを行うようになります。
そして、同じような境遇の同業者に販売の場所を提供する、という形で、全国から様々な茶業者が集まり、”おらが街の名茶”を茶城で販売するようになります。
ワンストップで産地直送の様々な名茶を購入できるという利便性は大きく、茶城は都市への茶の供給を行う一大拠点となったのです。
茶城とは、国内の流通網が整備されていない中で、茶産地の農家たちが中心となって築き上げた流通センターだったのです。
こうした成功例は、全国各地に波及し、各都市では茶城がどんどん整備されていきます。
「茶城」を取り巻く環境の変化
このように茶産地で生産されたお茶を大都市に供給する役割を果たしてきた「茶城」ですが、このスタイルも転換期を迎えています。
その理由をいくつか挙げていきます。
まず1つは、生産者(メーカー)側の変化です。
これまでは単独の小規模農家が主力となって担っていた茶の生産は、30年あまりの茶業の成長過程を経て、現在では企業形態を取り、相応の資本力を持つ生産メーカーが担うことも増えてきています。
こうした企業では、差別化のために独自のブランドを立ち上げ、それを強く打ち出すようになります。
自社のブランドイメージや世界観を適切に打ち出そうとすれば、様々なお店が混在し、雑多な印象のある茶城は、出店立地としては決して好ましいものではありません。
そこで、より消費者に近く、利便性の高い路面店の単独店舗を出店するケースも増えています。
もう1つは、茶城を所有し運営する、家主側の変化です。
初期の茶城は、地方から都市へやって来た同じ境遇の同業者と場所をシェアし、ともに成長していくという気風が感じられました。
しかし、茶業が急速に成長し、大きな需要が見込まれるようになると、不動産ディベロッパーなどが開発に大きく関与するようになります。
茶城は、お茶という中国人からすれば大変文化的なものを扱うという好ましいイメージもあるため、企業イメージにも好ましい影響を与えます。
このようにして開発された茶城は、設備などのハード面は既存施設よりも遙かに良いものになりますが、いきおい賃料も高額になりがちです。
贈答品需要やプーアル茶の投資ブームなどで茶業が好調に推移しているときは、高額の賃料でも見合います。
既存の茶城も賃料の引き上げなど、賃料改定を実施するようになります。
ところが昨今のように、贈答品が腐敗撲滅の運動で引き締められて、単価の高い高級茶の売れ行きが鈍ると、途端に高額の賃料が負担となります。
最大規模の茶城として知られる広州の芳村茶葉城などでも、賃料改定や協賛金の引き上げをきっかけに100店舗以上が撤退を余儀なくされるなどの大量退店が起こっています。
さらに、店舗側のスタイルの変化もあります。
初期の頃は、自分の地元のお茶を扱う「専門店」という体裁を取る店が多くありました。
しかし、一度、顧客を掴むとその顧客に対して、地元の商品だけでは無く、コネクションを活かして仕入れた他産地のお茶なども提案していくようになります。
顧客あたりの販売金額を上げようとすれば、これは必然の商行為です。
しかし、初見の顧客にとっては、全く違う産地のお茶が看板にズラズラと並んでいるお店は、非常に難解な店になります。
「何でもある」ということは、専門性が無いのではないか?という疑問が当然湧いてくるからです。
現在、茶城に行けば、このような難解に思える店舗がゾロゾロ並んでいます。
既に行きつけがあれば良いのですが、そうでなければ足を踏み入れるのは、言葉の問題の無い中国人であっても躊躇してしまうでしょう。
そして、流通形態の進歩による消費者側の変化です。
今や、中国ではネットを通じて購入する電子商取引が活発化しています。
地元の茶城など、店舗に行けば試飲ができるなどのメリットはあるかもしれません。
が、その分、量を買わなければならないのではないか?という、プレッシャーもかかります。
また、キラキラした快適なショッピングモールで買い物することに慣れた消費者にとっては、少し薄暗い印象のある茶城に入って高額の買い物をするのは、いささか不合理に感じるかもしれません。
それならば、わざわざ一度、地元まで輸送して様々な経費をかけている実店舗で購入するよりは、産地に本拠地を置くネットショップから購入した方が同じ価格でも品質が良いのではないか?と考えるのは、決して不自然なことではありません。
「騙されるかもしれない」という懸念も、少量ずつ購入したり、ショップの評価などをチェックしたり、ショッピングモールなどが用意する補償制度などを考慮にいれば、そう抵抗はないし、なにより気楽である、と考える消費者もいます。
特に若い世代には、この傾向が顕著にあります。
新規顧客ほど、こうした傾向にあるので、茶城を訪れる顧客はどんどん減っています。
「茶城」の時代は、もはや一区切りか
実際、現在の茶城に行ってみると、買い物客の姿を見ることは、あまり多くありません。
各店舗のオーナーに聞いてみると、多くは古くからの顧客による電話注文と宅配便による発送などで済んでしまうとのことです。
既に茶城の店舗は、倉庫とパッキングの場所であり、顧客との交流を時折行う場になっているようです。
これまで、茶産地と消費地を繋ぐ結節点として、大変大きな役割を果たしてきた茶城。
その役割も、流通網が様々な形で急速に発達した現在においては、いささか時代遅れになっているのかもしれません。
一方で、各都市には現在は複数の茶城がひしめいている状態で、茶城間の競争も激化しています。
全国各地にできた茶城は、今後、どこに意義を見出し、どのように変化することで生き残っていくのか。
茶城に入居する各店舗のみならず、茶城のオーナーや茶業界全体で考えていく必要のある問題なのかもしれません。
次回の更新は11月20日を予定しています。